詩吟とは、魂の救済である
お別れの詩吟
ある生徒さん(70代・女性)のお話です。お身内が亡くなられ、ドイツのライン川で散骨をされるとのこと。その際にお別れの詩吟を吟じたいということで、急遽、中国の王維によるお別れの漢詩「元二の安西に使いするを送る」を稽古したことがあります(著書『詩吟女子』の中でも詳しく紹介しています)。
この詩には、「無からん 無からん 故人無からん」というフレーズがあり、まさに故人へのそれぞれの思いをその場にいる人たちと共有できるもの、と私は思っています。
実際の漢詩の内容は、故人とは「古い友人」の意味で、 西の果てに役職(戦争)に行って、もう二度と会えなくなってしまうであろう古い友人に向けての別れの詩です。
日本でも昔から愛されていて、ナチュラル詩吟教室の生徒さんにも好きな方が多く、「お葬式の後に吟じたら喜ばれた」「父のお墓の前で吟じてきました」といったお声を聞きます。
民族音楽としての詩吟
先のライン川の話に戻ります。周りの方や外国の方が、どういう気持ちで詩吟を聞いていたのかはわかりかねますが、「みんなしみじみしていて」「不思議ととても馴染んでいた」そうです。
お別れの際に歌を歌うというのは、万国共通のことなのかもしれません。お経もそうですし、外国映画でもお墓の前で歌っている様子を観たことがあります。
そもそも詩吟は、世界の民族音楽の一つかもしれない、と感じています。
たまたまテレビでみたのですが、チベットの民族の歌に衝撃を受けました。
なんと、詩吟とそっくりなのです。
しかも、屋外の草原というか荒れ地の、住居と思われるテントの脇の広場で、円になってみんなで、それはそれは楽しそうに生き生きと歌っている。それが本当に素晴らしくて感動的で、かつ詩吟の発声とメロディにそっくりだったのでした。
それを観て、感動のあまり涙がボロボロと流れました。
人が亡くなったときに歌うものだったり、そうした生活に根付いた歌が、国境を越えてつながっていた……。
歌は生きる術
未開民族のうちで最もプリミティブな生活をしているヴェッダ族は上手に合唱することができないそうです。そもそも裸で生活していて、定住するための家も持たない。
どんなときに歌を歌うかといえば「ジャングルを歩いている時、象に逢わないように唱える歌」だったり、「死神をよける歌」だったりするわけなのですが、どれも同じメロディに違う文句をつけているだけだそう。
これには驚きました。まるで詩吟と同じなのです。
詩吟は、漢詩や和歌、俳句を歌いますが、五七五七七や五七五といった同じ音数のものを、言葉だけ変えて、ほとんど同じメロディで歌います。
極端な話、やっていることは未開人のヴェッダ族と変わりありません。
嬉しくもあり悲しくもある世界を、一挙に背負っているただひとつのメロディ。
だからこそ、詩吟が、お祝いの席でも、お別れの席でも吟じることのできる不思議な音楽なのかもしれません。
つまるところ、 詩吟の古典的メロディが、人の生きる術のひとつ、であったということ。
詩吟とは、魂の救済である
さっき夕飯を作りながら、何気なく昔好きだった音楽を聴きいていて、こみ上げるものがありました。最近てんやわんやでバタバタしてたけど、ぐっと心が収縮されて解き放たれる感じ。ああ、音楽は心を救済してくれるんだなぁ……。
そこで、詩吟が歌(音楽)である意味がわかったような気がしました。
詩吟のメロディは、初めて聴いた人にも懐かしく、心を落ちつかせるものがある。
自分(声)を楽器(音)として、古き良き詩を奏でる。いくら良い詩があっても音楽として奏でなければ意味がない、とまでは言いませんが、そうすることによってより一層楽しめるし、他者とコミュニケーションできる。
詩吟とは、魂の救済である。
大げさですが、そんな言い方をしても悪くないかもしれません。